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「郷土昔ばなし」が語る戦争の傷跡(山梨県北杜市長坂町白井沢)

供木記念の碑 (広報ながさか No.395 2001年2月号より)
「供出」という言葉。現在では「米の供出」の時以外ではあまり聞かれない言葉になっています。供出という言葉が私たちの生活の中で盛んに使われたのは戦争中のことでした。辞書には、「供出とは、民間の物資を法定の価格で、政府に差しだすこと」と書かれています。

第二次世界大戦が拡大し、戦争が長期化するにつれて、日本は戦争を勧めていくための武器や兵隊さんの食糧、軍馬や馬の餌をはじめ必要な物資が極度に不足してきました。



政府は、これらの軍需品の調達を供出によってまかなうことを決めました。そのために国民は、毎日の食べ物が着るものも節約して、決められた量の品物の供出に励みました。

昭和12年に日野春村役場に残された資料には、供出された物資として、乾し草、藁(わら)、ごぼう、にんじん、漬け菜、梅乾(うめぼし)、大麦、兎の毛皮、被服などの名前が出ています。また、火の見櫓(やぐら)に使われていた鉄やお寺の鐘、橋の欄干までもが軍艦や戦車を造る材料として供出されました。

供出品のうち最も大きいものは「木」でした。樹齢数百年という巨木が、船材という理由によって、「供木」という名のもとに伐採され八ケ岳山麓一帯からその姿を消しました。鎮守の森として村人たちから崇敬され、人々の心のよりどころであった神社の境内に、ずっしりと立っていた巨木も供木を逃れることはできませんでした。
「郷土昔ばなし」が語る戦争の傷跡(山梨県北杜市長坂町白井沢)_c0041095_9452677.jpg白井沢諏訪神社の境内には、郡下にも比類のない大きな杉の木がありました。神様の依代(よりしろ)として崇め、祖先の時代から大切に守り続けてきたのでした。しかし、この木さえも、ほかの十数本の木とともに切り倒されました。ご神木の巨木を失った村人たちは、境内に「供木記念碑」を建立し、神霊を鎮めるとともに、村人の神木に寄せる気持を刻みました。今、記念碑の側(かたわら)には、直径2メートル余りもの朽ちた切り株が残っています。長坂町内では、このほかに、小荒間の六所神社、大井ケ森諏訪神社、清光寺など多くの神社やお寺の境内の木が供出されました。

白井沢諏訪神社の記念碑が建てられたのは、昭和20年4月13日のことでした。それから4ヶ月後の8月、日本は戦争に敗れ終戦となりました。供出されたこれらの巨木たちはその役目を果たすことができたのでしょうか。戦争のために徴用※され、過酷な条件の中で無言で働いたものの中に軍馬もいました。農家で家族の一員のように大事に飼われていた農耕馬の中からも、検査に合格した馬が戦地へと送られていきました。
  ※徴用 … 戦時に労働力の不足を補うため、国民を強制的に一定の作業に従事させること。
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*~* 今年はたまたまロンドンで5月の「戦勝記念の日」を過ごし、8月はわがまち北杜・長坂で「敗戦記念の日」を迎えている。それにつけても疑問に思うのは、戦後60年も経過していながら「勝った」「負けた」気分の残る記念日のままであること。子や孫の世代にしっかり記憶の手渡しをするために、「終戦の日」の意味を新しく捉え直せたらよいのだが。世界から戦争が無くならない理由についてもよ〜く考えたいものだ。
by mukai-message | 2005-08-15 10:58 | ○里山を守る・壊す
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